クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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教皇、バングラデシュのテロ犠牲者を悼む


マレーシアでもイスラム暦のラマダン(断食月)が終わり、断食明けのお祝い、
ハリラヤプアサを迎えています。

先日のテロの犠牲者とその家族のための祈りは、宗教を問わずここマレーシアでも
クアラルンプールでもささげられています。

フランシスコ教皇さまはこの件に、次のような声明を発表しています。

1. 教皇、バングラデシュのテロ犠牲者を悼む、
 「神と人間を傷つける野蛮な行為」を非難

教皇フランシスコは、バングラデシュの首都ダッカで起きたテロ事件の犠牲者を悼む
メッセージをおくられた。
バチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿を通し、バングラデシュの教会・
行政関係者に宛てた電報で、教皇は無実の人々に対する無分別な暴力に深い苦しみを
表された。
教皇はこの行為を神と人間を傷つける野蛮なものとして強く非難。犠牲者の冥福を
心から祈ると共に、犠牲者の家族と負傷者のために祈りを約束された。

(7/3バチカン放送局より http://ja.radiovaticana.va/news/2016/07/03/教皇、バングラデシュのテロ犠牲者を悼む、「神と人間を傷つける野蛮な行為」を非難/1242029)

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2. 憎悪のために暴力に走る者たちの回心を祈る、
  教皇、ダッカのテロに

教皇フランシスコは、バチカンで7月3日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。
照りつけるローマの太陽の下、聖ペトロ広場に集まった人々に、教皇は、
バングラデシュのダッカと、イラクのバグダッドで起こったテロリズムに言及。
テロの犠牲者たちの死を悼み、憎しみのために暴力に走る人々の回心を次のように
訴えられた。
「ダッカとバグダッドで起きたテロリズムの犠牲者たちのために深く祈ると共に、
遺されたご家族や関係者たちの悲しみに心を合わせましょう。また、憎悪に目を
くらまされ暴力に走る人々を神ご自身が回心に導いてくださるように祈りましょう」
また、教皇は祈りの前の説教で、ルカ福音書(10,1-12.17-20)の、イエスが72人を
派遣するエピソードを取り上げられた。
教皇はこのエピソードを通して、「収穫のために働き手を送ってくださるように」
(同10,2)と、わたしたちが収穫の主である神に祈ることの大切さを知るよう招かれ、
次のように話された。
「イエスが ここで働き手と言っておられるのは、神の御国の宣教者、イエスご自身
が任命し、『ご自分が行くつもりのすべての町や村に先に二人ずつ先に遣わされた』
人たちです。
宣教者は常に救いのメッセージをすべての人に告げます。宣教者とは遠い地に赴く人
たちだけではありません。わたしたちキリスト者は皆、救いの善き知らせを告げる
よう招かれています。これはイエスが聖霊と共にわたしたちに与えてくださった賜物
です。そして、そのメッセージは、『神の国はあなたがたに近づいた』(同10,9)と
いうものです。
イエスは神をわたしたちに近づけました。神はイエスにおいてわたしたちの一人と
なられました。神はわたしたちの間で統治しておられ、 そのいつくしみの愛を
もって、罪と人間の惨めさに打ち勝たれるのです。
これこそが神の『働き手』、すなわち神の国の宣教師たちがすべての人々に
伝達すべきメッセージです。それは、希望と慰め、平和と愛のメッセージです。
イエスはご自分が行くより先に村々に弟子を派遣する際、次のように命じました。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
その町の病人を癒しなさい」 (同10, 5.9)
これらのすべては、神のみ国は日々建設され、すでにこの世でその実、すなわち
回心や浄化、愛と慰めの実を人々にもたらしているということです。
素晴らしいことではありませんか。毎日この神の御国を建設していくこと。
破壊ではなく、建設することです。
イエスの弟子たちは、この使命に対し、どのような精神で働くべきでしょうか。
まず、自分たちを取り巻く難しい現実、時には敵意に満ちた状況が待っていることを
自覚すべきです。
イエスはその弟子たちを派遣するに当たりこう言いました。『わたしはあなたがたを
遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ』(同10, 3)。
キリスト教徒たちに対する迫害の根には、いつも敵意があります。
なぜならイエスが熟知しているとおり、神の使命は常に悪魔の妨害に遭うからです。
それゆえ、福音の働き手は、『財布も袋も履物も持っていくな』(同10, 4)と
イエスが命じるように、あらゆる人間的拘束から自由になり、キリストの十字架の力
のみに信頼するよう努めなければなりません。これはあらゆる形の人間的な権力や
出世主義を捨て去り、イエス・キリストの犠牲によって完成された救いの謙遜な道具
となるべきことを意味しています。
世におけるキリスト者のこの素晴らしい使命は、一人の例外もなく、すべての
キリスト者に託された使命です。そのためには多くの寛大さと、特に主の助けを
願い、天に向ける眼差しと心が必要です。毎日喜びをもって福音を証しする、
多くのキリスト者の存在が必要です。イエスから派遣された弟子たちは、
『喜んで帰って来た』(同10, 17)と言います。
わたしたちがこの使命のために働く時、心は喜びに満たされます。司祭、修道者、
宣教者たち、福音を日常の中で告げる人たちのおかげで、善き知らせが人々に
届く時、教会はどれほど喜ぶことでしょう。
若い皆さんにお聞きします。今広場にいる皆さんの中で、主の召し出しを感じ、
それに従いたいと思う人がどれだけいますか。恐れてはいけません。勇気をもって、
この模範的な弟子たちによってもたらされた使徒的熱意の火を、皆さんも人々に
伝えてください。
おとめマリアの取次ぎをもって主に祈りましょう。天の御父の愛と優しさを皆に
伝えるために働く寛大な心が教会に欠けることがありませんように。」

(7/3バチカン放送局より http://ja.radiovaticana.va/news/2016/07/03/日曜正午のアンジェラスの祈り__教皇フランシスコ「憎しみに目がくらんで暴力に走る人々を神が回心させてくださいますように/1241769)


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私たちも地元の人たちとともに祈ります。

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