クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2016/12/18 祈りと分かち合い

 
2016年12月第2回目の KLカトリック日本人コミュニティ "祈りと分かち合い" は、
12月18日(日) にKL St.John's Cathedral バリッシュホール内教室で行いました。
今回が、今年最後の "分かち合い" となりました。
 
イエスは私にとって誰なのか、私の人生とどういう関係があるのかをテーマとし
日本語でのお祈りとみ言葉の朗読を中心に分かち合いを続けています。
 
はじめに、私たちがキリストを囲んでここに集められたことと、今年一年に
いただいたたくさんのお恵みに感謝し、"主の祈り" で皆一緒にお祈りをしました。
 
そしてこの日のテーマである、
"この神の愛に応えるには……いと小さき者にしたこと・隣人になること" 
マタイ25:31-46 と ルカ10:25-37 のみ言葉を味わい、気づいたことや
いただいた恵みなどを自由に分かち合いました。
 
私たち日本人にとっては一般の日本語として "小さき者" や "隣人" といった言葉は
あまりなじみがありません。このキーワードがどういう意味なのか、
また福音を告げ知らされた私たちの "喜び" について、"その応答" ということなどに
ついても、深く分かち合われました。
 
以下は、その分かち合いの一部です。
 
① スープキッチンのボランティアを長くされている方々の働く姿は、
その方の働きが立派だなと感じる以上に、その背後の神の愛と恵みや、
その方を突き動かす聖霊の働きを、とても強く感じることができる。
働く姿を通して神の愛が見える。それを見せていただく機会に感謝する。
 
② 奉仕活動については、それが神様への "愛の応答" と意識したことはあまりない。
さまざまなことに直面するが、その中で喜びや楽しさはもちろん大いに感じている。
また奉仕の最中に、時々神のまなざし・目線を感じることもある。
 
③ ミサ中に、お御堂の外の折りたたみいすでの臨時シートでは、たまに
お喋りする人や騒ぐ子供など、うるさい参列者がいる。
その時は祈りに集中できない自分にイライラすることもあるが、"主の平和" の挨拶を
交わすと自然になごみ、親しみや近さを感じることができる。
この瞬間、この人たちとも隣人・友となったのかなと思うのと同時に、イライラした
自分はエゴだったのかもしれないと気付く。
 
④ 自宅の修理工事をしてくれた異国で働く外国人の大工さんと、
自分たちの家族と一緒に、食事を共にする機会を偶然に与えられた。
食卓を囲んでいると、その方がクリスチャンでも神さまの話をしたわけでもないのに
なぜか神聖な雰囲気に包まれた。その時、イエスさまも大工さんだったということを
思い出した。イエスさまも公生活が始まる前の私生活中に、きっと色々な家庭に
出かけ、色々な家を見て家族と出会ったのだろうと気づき、自分の家の修理と
大工さんであったイエスさまを重ねて思い巡らせた。
 
 
最後に、クリスマスが近くなったこともあり、こちらでも英語やラテン語で歌われる
"来たれ友よ" (英語は"O Come All Ye Faithful", ラテン語は "Adeste Fideles") を
歌って今年の分かち合いはお開きになりました。
 
来年、年明けからまた始まります "祈りと分かち合い" のスケジュール等、に
つきましては、お気軽にメールでお問い合わせください。
 
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はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。(マタイ25:40)
 
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。 (ルカ10:36)