クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/1/7 祈りと分かち合い

 
2017年、今年最初の "祈りと分かち合い" は1月7日(土) に行われました。
 
St. John's Cathedral 敷地内で、主任司祭レオナルド神父さまから
"カトリック日本人コミュニティ" に割り当てられている教室ですが、
1月8日(日)に行われた、マレーシア初の枢機卿さま誕生の祝賀ミサと行事のため、
1月4日から9日まで、構内への立ち入りおよび駐車スペースが制限されることとなり
今回は特別に場所を変更して、市内のカフェでの集まりとなりました。
 
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イエス・キリストとの出会い、彼の弟子、彼の友となるために、
イエスは私にとって誰なのか、この方が私の人生とどういう関係があるのかを
テーマとし、日本語でのお祈りとみ言葉の朗読を中心に分かち合いを続けています。
 
はじめに、私たちがキリストを囲んでここに集められたことに感謝し、
"アヴェマリアの祈り" で、皆一緒にお祈りをし、今年の分かち合いが始まりました。
 
この日は、"イエスの受難とその死、復活" の前編として "十字架の死" マルコ15章と
メシア像のひとつであった"苦しむ僕の姿" イザヤ52:13-53:13 のみ言葉を味わい、
この日の分かち合いテーマ、"イエスの死にはどんな意味があったのか?"
"私たちの死とどのような関係があるのか?" について、気づいたことや疑問などを
自由に分かち合いました。
 
 
以下は、その分かち合いの一部です。
 
① "スケープゴート" という言葉は、他人に罪を着せて自分が逃れる、という
ネガティブな言葉として一般に使われるが、もともとの語源は、ユダヤ教の
"贖罪の山羊" から転じていると知った。
日本人には "贖罪のいけにえ" という考え方は難しいが、イエスの十字架の意味を
理解しようとしたとき、まずこの習慣があったことを知ると少しわかってくる。
 
② この時代自分がもしそこにいたら、どう考えどうしていただろうと思い巡らす。
見て信じるのではなく、見ないで信じなさいとイエスさまはおっしゃったが、
その当時に生きていたら、どうこの目で見、どう実感しただろうと黙想する。
 
③ この時代の過酷な気候、過酷な生活と比べると、今の日本人は冷めている。
日本人は疑い深いこともあり、奇跡などなかなか信じることは難しいが、
ここまで読んでゆくと、やはりイエスは王だと思う。
 
④ イエスを信じることは、イエスの十字架と復活を信じることだ。
罪がないのに、頼りない弟子の足を洗い、仕える。
弁解もしないこの方は、普通の人間ではない。神の子、救い主でしかありえない。
 
⑤ イエスさまのエルサレム入場では "ホザンナ、ホザンナ" と迎えた民衆が、
ほどなくして、"十字架につけろ" と叫び、イエスを十字架ににかけた。
群集心理的な人間の弱さは、今の人間社会にもよく見られる。
大衆が1つの物や人を攻撃する姿は、恐ろしいと思った。
 
⑥ 誰もいない教会の敷地で一人掃除をするのが好きだ。
そこでイエスと出会い、祈りながら働くことができるし、イエスさまとお話しする。
 
 
最後に、カフェということで聖歌を歌うことはできませんでしたが、
感謝の短い祈りでお開きとなりました。
 
今後の "祈りと分かち合い" のスケジュール等、につきましては、
当ブログ内 "連絡先" に記載されている連絡先に、お気軽にメールでお問い合わせ
ください。
 
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百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マルコ15:39)