クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/3/19 祈りと分かち合い

 
2017年3月、2回目の KLカトリック日本人コミュニティ "祈りと分かち合い" は、
3月19日(日) にKL St.John's Cathedral パリッシュホール内教室で行いました。
 
この "分かち合い" は、イエス・キリストとの出会い、彼の弟子となり彼の友となる
ことをテーマとし、イエスとの人格的な出会い、特にこの方が私にとって何者なのか
私の人生とどういう関係があるのかをそれぞれが探していく旅を続けています。
 
初めに "主の祈り" を、特に3行目の "み国が来ますように " の箇所を深く意識しながら
皆で一緒にお祈りをしました。
 
そしてこの日は "イエスは神の国をあらわす。神の国(神の世界)とは?" の
関連の聖書の箇所の み言葉をいくつか味わい、その後、疑問や感想・気づきなどを
自由に分かち合いました。
 
イエスの生涯をかけたメッセージであった "神の国" ですが、私たちがイエスと
出会い、神の国とその価値基準を知る時、私たちにも "神の国" は始まり、
日々の生活が、実際に変えられていきます。
 
以下は、その分かち合いの一部です。
 
①  この時代にもしキリストが日本に現れたとしても、時代背景を考えると、当時の
日本人には分からなかっただろう。イエスがメシアだと分かったイスラエルは、やはり選ばれたのだと思う。ここで "分かる・気づく" ということは重要なポイントだと思った。
 
② 私たちは、神からの恵みをもう既に、たくさんいただいている。"イエスの服に触れる女" の箇所を読むと、その場面が映画のシーンのようにありありと浮かび、印象的に残る。
 
③ イエスの呼びかけに "気付く" ということは大切だ。もう既にいやしや恵みは与えられているのだから、それに自分が "気づく" かどうかがポイントとなる。日常色々な問題の中で生きているが、この恵みに "気づいていない" と思う。
 
④ その"気付き" のためには、違う観点から物事を眺めてみるというのも一つの方法だ。見方を変えてみると、新しい発見があることがある。また、自分が "気付いていないこと" に"気付く" ことができる。
 
⑤ 神の国が始まるしるしとして "価値観が変わる" ということを思い巡らせていくと、やはり自分も変えられる必要がある。例えばたくさんお金を持っていても "不安" だったり、大してなくても "心の平安" に満たされると理由は、価値観をどこに置くかということだと思う。
 
⑥ 年齢を経ると知識や経験は身につくが、心が硬くなったりエゴや傲慢が出てくる。今思い返すと10代の自分の信仰は、感謝と謙虚に満ち、純粋なものだった。
"貧しい人は幸いである" のような "謙虚さ" が信仰だと思う。
 
⑦ "神の国はもう始まっているのだから信じなさい" と言われているようだ。神さまは、私たちと共にいてくださるということだと強く感じた、
 
 
マルコ5:24-34 "イエスの服に触れる女" を、単なる肉体の癒しの話ととらえる
だけでなく、ここではイエスとの人格的な出会いと交わりがあり、彼女はその神の愛に気付き、自分を委ね、そして彼女に "神の国" が始まりました。
 
私たちもこれまでの自分の歴史を振り返り、いつどのようにイエスからの呼びかけと
出会いがあったのか、その愛に私たちが気付き、神の愛に自分自身を委ねたか…
自分と自分の周りに "神の国" が始まったしるしはどんなことだったか…
ということを、四旬節の各自の黙想のテーマとしました。
 
最後に、"主のみくにが来ますように…" の歌詞を持つ、日本語で人気の聖歌
"マラナタ" を歌い感謝のうちにお開きになりました。
 
次回4月の "祈りと分かち合い" のスケジュール等、につきましては、
当ブログ内 "連絡先" に記載されている連絡先に、お気軽にメールでお問い合わせ
ください。
 
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"神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」といえるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。" (ルカ17:20-21)
 
"神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです"
(ローマ14:17)
 
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