クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2019/1-2 祈りと分かち合い 求道者向けその7,その8

 
昨年末より、アジアで一緒ごはん黙想会やそれぞれの帰国スケジュールなどのため
しばらくお休みしていた分かち合いですが、年明けよりまた始まっています。
 
2019年1月、今年初めての入門的な求道者のための分かち合いは、第7回となります。
まず、主の祈りでここに再び皆が集まったことに感謝し、初まりの祈りとしました。
 
この日は、"イエスが神の国(神の世界)をあらわす" から最後のテーマとなる
"この世に実際に介入される神 (力あるわざ) " 、聖書からマルコ6:30-44 の
"五千人に食べ物を与える" のみことばを読み、深く味わい、それぞれ分かち合いをしました。
 
福音書の中にはしばしばこうした奇跡物語が出てきます。福音書の読み方を振り返り、福音記者の意図は何だったのか?を探していきます。
 
関連箇所、詩編23章と、この対比となっているエゼキエル34:16も併せて読んでいきました。そして、人間の目には不思議な出来事であっても、神の目には必然なもの、出来事の中に神のわざが現れる、神の存在や神の介入がそこに現れる "奇跡" が、各自がこれまでの人生の中でどんな時にあったかなどを探して行くことにしました。
 
すべての人が食べて満腹した。(マルコ6:42)
 
求道者の方は…
かつて聖書を文学として読んでいた学生時代には、奇跡物語については、聖書というのはこういうものだと違和感なく読んできた。時代も違うし、その時代は不思議な出来事をこのような奇跡としたのだろうと思っていた。
2000年語り継がれたこの不思議な物語を、それぞれの時代の人たちはその時代なりに受け入れ読み継がれていったのだろう。このこと自体に信頼性がある。
こういう奇跡物語を悪用する宗教もあるだろうから、気をつけたい。
たとえを使った物語は、"真理" を読み解くのにわかりやすい。
昨年よりカトリックに出会い、文字通り私の目は開かれた、目がようやく見えるようになってきた。生きている、と感じている。カトリックとの出会いが私にとって奇跡だ。
 
信徒からは…、
39節、皆を組に分けて…は今の教会の共同体の姿のもととなるように感じた。また、パンのところはミサのご聖体を思い起こすが、さらに41節後半の、弟子に渡しては配らせ…は、ミサ中に聖体奉仕者が司祭からご聖体を渡され、さらにそれを皆に配るようなとてもリアルな映像が思い浮かぶ。
また、私たちを羊にたとえているが、この羊であった信徒がそれぞれにイエスの弟子となっていく過程とも感じた。
今日ここにこうして、KLの片隅で私たちの主イエスを囲んで集まっていること自体が奇跡だ。
 
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2月の第8回目からは、"イエスの生涯" の部に入ります。イエスとの出会い、友となり弟子になることをめざして、イエスがどんな生涯を送り、そして教会の誕生となったのか、これから少しずつ進めていきます。
 
この日は、"イエスの誕生物語" ルカ2:1-20 のみ言葉を読み、深く味わい、分かち合いをしました。
ここでも聖書を読むときは、福音記者が何を言いたかったのかを読み取ることが大切です。神が人となられた、ということを理解するのはなかなか難しいことではあります。4節ヨゼフがマリアと共に出て行く、聖書で"出る"という意味。19節マリアさまの、心に納めて思いめぐらしたこと、羊飼いに現わされたこと、15羊飼いの態度と、18それを聞いた人の態度、宿屋に泊まるところがなかった、飼い葉おけ、布に包まれた…などの意味も、これを思い起こす旧約聖書の中から関連箇所をひも解いていきました。
イエスの誕生の意味、クリスマスを祝う意味なども重ねて分かち合いました。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
求道者の方は…、
12月25日ではないこと、日付そのものには意味を持たないことを知り衝撃だ。
心に刺さったのは、マリアさまの思い巡らしたというところ。それから羊飼いがすぐに行動を起こしたことと、それを聞いた人たちがただ不思議に思っただけだったことの対比、おそらくこの時代も今の時代の人たちも、ほとんどが後者だったのではないか。私は、前者の神さまに気づき、すぐ行動する人でありたい。
それから、"出る"ということの深い意味を意識している。これまでの私は、~をしなければならない、~べきである、自分はダメだ、といったことに囚われていて、それがとても苦しかった。自分自身をそれに縛るのではなく、そこから"出る"ことを知った。これが今の私の救いだ。
 
信徒からは…、
求道者の方の気づきと分かち合いは素晴らしい。日常の忙しさの中でつい忘れてしまうことだ。
すでに救われていることを日々意識したい。自分は信徒として、救いを思い出したり闇の方につい向いてしまったりと、正直行ったり来たりという感じだ。これを意識して光の方に向く癖をつけて、比率を多くしていきたい。
人間の罪というか、私たちには放っておくとついつい闇の方に取り込まれてしまう傾向があるように思う。赦せないことをいつまでもぐるぐる考え続けたり、そういう傾向が人間には誰でもあることを意識することからまず始めようと思う。
自分の中に闇が出てきたら、すぐ神さまに祈る、光の方を意識して向くようにすることを、まず今週の目標としたい。
 
終わりの祈りとして、日本語聖歌、"ガリラヤの風かおる丘で(きかせてくださいみ言葉を)" を一緒に大きな声で歌い、主の平和に満たされ、みな笑顔のうちにお開きになりました。
 
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まだ半年も経っていないのに、数回の入門向け分かち合いを通して神さまがご計画されていること、聖霊の働きの大きさには、私たち立ち会っている信徒は、そのみわざに驚き、毎回圧倒され続けています。神さまが確実にこの方を祝福されていて、主は確実に私たちの中におられます。
 
この求道者向け入門とは別に、受洗してから久しい信徒の方からも、信徒向けの分かち合いのリクエストがあります。こちらの方は現在スケジュールを調整中です。
 
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