シンガポールで助祭叙階式に参列
<St. Mary Of The Angels Church>シンガポール
今回は、シンガポールを訪ねました。
マレーシアのクアラルンプールTTDIの教会出身の
「Esmond Chua」氏の「叙階記念式」に参列するためです。
彼は、修道士でもあります。
2015年にこのシンガポールの「St. Mary Of The Angels Church」で
神のために働く兄弟となりました。
今回は英文には「Deacon Diaconate Ordination」とあり、叙階です。
それに、1か月前の「ヘラルド=マレーシアカトリック教会新聞」に、
やはりここの修道会、教会の「耳の聞こえない修道士」の記事となった
「ある修道士」の手話の通訳者としても彼は載ってました。
3名の叙階です。
この聖堂の天井から降っている「キリスト像」に衝撃を覚えます。
こういうキリスト像表現は、あまり他でも無いのではと。
よく見ると、キリストの足は骨が砕け包帯が取れて肉を通り越して
向こうが透けて見える。
キリストは、私達の罪を背負って十字架にかかって下さった。
赦して下さる象徴でもあるこのキリストには、十字架が無いのです。
どうしてかな? 十字架イコール復活であり、暗いイメージを
払しょくする、明るい復活、天に昇るキリストなのでしょうか。
世界中のほとんどのキリスト像は、十字架の磔がセットになっていますが、
この教会の天井からの像は、十字架がありません。
作者と、依頼した教会にその意図と意味があるのかもしれません。
いずれにしても、キリストは全世界の人類の罪を背負って十字架にかかった。
キリストそのものが十字架であり、十字が無くても、キリストを思い浮かべるべきであり、祈るべきであり、祈れる。
キリストの本当の愛が、私達の心や体の悩みや苦しみを一心に受け入れて下さり、すべてを赦していただいている。
復活を約束されている。
そこから出発しているの意味だから、心配しなくていい。
安心して、心と体の十字架を取り払って私に寄り添いなさいと、
おっしゃっているように思うのでした。
苦しみの十字架も、もちろん心の戒めにはなるが、十字架の無いキリストは、それらを超えた神の深い愛、罪びとの私達を本当に愛してくれている
キリストの優しい愛を感じるのであります。
「十字架を背負って苦しんできたあなた達、十字架を私が取り除く、
だから安心して、私のもとに、御手に頼りなさい」とおっしゃっているかのように、優しいキリストの姿でもあります。
だから、疲れても、苦しんでも、悩んでも、キリストの愛を信じて、また
頑張れるのです。
<St. Mary Of The Angels Church>
「FRANCISCAN COLUMBARIUM」
毎日7:30から22:00まで開館しています。
簡単に言うと、日本でいう「共同墓地」「合同墓地」で、中はシーンとして
おり、亡くなった方の名前と霊名や日付などが表示されてました。
まだまだ十分空いてます。
この写真は、外のガラスから覗いて撮ったもので、祭壇の壁は後ろの風景が
そのまま写ってしまいました。3Dスクリーンみたいですね。
<St. Mary Of The Angels Church>シンガポール