クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/4/23 祈りと分かち合い (求道者その1)

 
2017年4月、2回目の KLカトリック日本人コミュニティ "祈りと分かち合い" は、
復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) 4月23日(日) にKL St.John's Cathedral
パリッシュホールの教室で行いました。
 
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この "分かち合い" は、イエス・キリストとの出会い、彼の弟子となり彼の友となる
ことをテーマとし、イエスとの人格的な出会い、特にこの方が私にとって何者なのか
私の人生とどういう関係があるのかをそれぞれが探していく旅を続けています。
 
復活祭を先週祝った後、初の集いとなったこの日は今回初めて参加される未信者の方
をお迎えして、復活節にふさわしい新しい雰囲気での分かち合いの会となりました。
 
ラインホルド・ニーバーの "道を求める者の祈り" で最初のお祈りをし、
今回は、"ザアカイの心に神の国が始まった" と題して、ルカ19章1-10 のみことばを
一緒に味わいました。
そして、ザアカイという人がどういう人で、この人の変貌の根底にあるもの、
彼の救いがどこにあったのか、さらに私たちにそれぞれとって、"神の国" が始まった
しるしやその救いの体験など、自由に分かち合いをしました。
 
以下は、その分かち合いの一部です。
 
① このザアカイという人には親しみを感じる。"その場所" で "今日" イエスと
出会ったのは偶然ではなく、神さまのご計画の1つなのだろう。そして2000年前の話は、現代にも時を超えて通じる。自分もイエスさまから何度も呼びかけられているのだろうと思うが、気付いていなかったかもしれない。
 
② 神さまからの呼びかけは、夫との出会いがそうだったと思う。その時神さまが近くにいてくださったと感じる。
 
③ 自分はイエスさまとの直接の劇的な出会いということをまだ体験していないように思う。イエスを知るのは人を通じてで、例えば "福音の村" で晴佐久神父様のお説教を読んだ時、大司教館のチャペルに案内された時、喜びを外に表すクリスチャンの人に会った時、不思議なぞくぞくするようなよい感覚に満たされる。それが愛そのものである神さまとの出会い、恵みかなと思う。
 
 
④ ザアカイが財産の半分を施したという8節の行動は、イエスと出会いによって彼が変えられた証しなので、これが救いより先きに来るような間違った順番の解釈をしないようにしたい。
 
⑤ 私たちはもう既にイエスと出会っているが、気づかないだけかと思う。救いはすでに来ていて、あとは自分が受け入れるだけかもしれない。そうしないのは自分のエゴが邪魔をしているのだろう。
 
⑥ 自分は以前ザアカイと同じ価値観だった。後ろめたいような罪の意識があり、神を求めたり、善行に努めるのは罪滅ぼししたい気持ちからだ。人間は弱く神以外にこの心の隙間を埋めてくれるものはない。
 
⑦ あるお御堂に入った時、涙があふれて止まらなかったことがある。イエスとの出会いがそこであったと思う。
 
⑧ 8節のザアカイの変貌、財産の施しの箇所で思い出すのは、東日本の震災後、ローカルの小さな教会で日本のための献金活動があったことだ。それはローカルが自発的に行ったものだった。小さい教会にもかかわらず、RM8000 もの大金が集まり日本に送られた。その時、共同体全体がイエスと出会うことでその行動をしたこと、マレーシアと日本がキリストによってつながっているという実感があった。喜びと感謝で涙が出た。
 
⑨ 先回りして走り、なおかつ木に登ってイエスを見ようとしたザアカイの行動に共感する。よほどイエスが気になっていたのだろう。そしてイエスの呼びかけに喜んで応え、イエスを迎えた。こういう態度はザアカイの良い点だ。だからイエスと出会えた。私たちもこの態度でありたい。
 
⑩ 私のこれまで人生も、イエスと出会って以来、色々な点で変えられた。価値観が変わり、心の偏りや考え方の癖、精神的な囚われから解放されて自由になった事柄は多い。それが私にとっての "救い" だったと思う。
 
最後に、フィリピンのカトリック教会では英語版が親しまれて歌われる 名曲
"マラナタ" を日本語で歌い、感謝のうちにお開きになりました。
 
 
次回の "祈りと分かち合い" のスケジュール等、につきましては、
当ブログ内 "連絡先" に記載されている連絡先に、お気軽にメールで
お問い合わせください。
 
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"道を求める者の祈り" ラインホルド・ニーバー
 
神よ、私はまだあなたのことをよく知りませんし、あなたが本当におられるのか、
どうかさえ、はっきり分かりません。
けれども私の心は この世のものでは決して満たされることのないことを予感し、
心の底ではあなたを求めています。

私は生まれてきました。しかし、私は、自分がどこからきてどこに行くのかを...
また、人間の尊厳を口にしながら、私の命がどれほどの価値をもつのかを、
誰も私に教えてはくれませんでした。 けれども、それが分からなくては、
行く先も定かでない迷路をさまようようで、私は不安でたまりません。

神よ、もしあなたが本当におられるのなら、あなたを探し、あなたに向かって叫ぶ
私にあなたの声をお聞かせください。
そして、私を人生の迷路から導き出してください。
生きることの厳しさにあえぎながらも、なお希望に満ちてこの世の命を生き抜くこと
ができますように!
 
 
 
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