2017/5/7 祈りと分かち合い
2017年5月、1回目の KLカトリック日本人コミュニティ "祈りと分かち合い" は、
5月7日(日) にKL St.John's Cathedral パリッシュホール内の教室で行いました。
この "分かち合い" は、イエス・キリストとの出会い、彼の弟子となり彼の友となる
ことをテーマとし、イエスとの人格的な出会い、特にこの方が私にとって何者なのか
私の人生とどういう関係があるのかをそれぞれが探していく旅を続けています。
久しぶりに帰馬された方々や、前回から参加し始めている未信者さんも、
今回の分かち合いを楽しみにしてくださり参加され、賑やかな分かち合いの会と
なりました。
初めにラインホルド・ニーバーの "道を求める者の祈り" で最初のお祈りとし、
今回は、 "イエスは生きておられる! 私たちの復活体験は?" と題し、
使徒行録9章より "サウロの回心"、 ルカ福音書24章から "エマオで現れる"
そしてヨハネ福音書20章より "イエス、マグダラのマリアに現れる" の み言葉を
味わいました。
その後、感想や気づきを自由に分かち合いました。
以下は、その分かち合いの一部です。
① パウロは行きたイエスには会っていないが、これだけ全世界にキリスト教を広めることになった神のみ業は、想像を超えた大きさがある。
② マレーシアの教会で、教会の人たちとパウロの映画を一緒に見たことを思い出した。その中で、パウロがペトロと話し合う場面が印象的だった。イエスから直接使徒職を継承したペトロだが、パウロという大変偉大な使徒の助けを得ることで、福音を世界に広めることができたのだろうと思った。
③ サウロは望まれたもの、パウロは小さき者、という意味だそうだ。コリントへの手紙の中にも、使徒と呼ばれる値打ちのない者、という表現がある。この彼の名前がキリストによって"弱いからこそ強い"、ということにつながったたように感じた。
④ "エマオで現れる" の箇所は聖書の中でも好きな箇所の1つだ。特にパンを取り、賛美の祈りを唱え、割って弟子に与えるという聖体祭儀のご聖体を思い起こすところ、それでイエスと分かったこと。またイエスが、弟子たちがわからなかった聖書全体についてご自分について書かれていることを説明したところが好きだ。それに加え31節の、イエスと分かったが姿が見えなくなったのは、イエスがパンの中に見えなくなったと気づいた。ご聖体の中にイエスは生きておられる。
⑤ マグダラのマリアは最初振り向いても肉体の目でしか見ず、遺体を引き取ることにとらわれ、イエスと気づかなかった。次に信仰の目で振り返った時、イエスは生きていると気づき、イエスと共に生きるようになった。私たちも信仰の目でイエスの呼びかけに応えたい。
毎回、"気付き" ということが話題になりますが、私たちのこれまでの人生の中で
どんなイエスとの出会いがあったのか、また呼びかけられたことがあったのかを
思い巡らすという黙想を、それぞれが行うヒントとしました。
最後に♪ "夕暮れのエマオへの道で、弟子たちに告げられた、いのちのみ言葉を、
私にも聞かせてください" の歌詞を4番に持つ、歌い親しまれている日本の聖歌
"ガリラヤの風かおる丘で" を皆で歌い、この日の分かち合いはお開きになりました。
そして先日香港カトリック日本人会さんからいただいたファティマグッズなどを
皆で分け、いただきました。
残りのグッズは、高山右近の英語説明パンフレットと共に、いつも私たちがお世話に
なっている、私たちの所属小教区教会 St. John's Cathedral 事務所に持参し、
主任司祭のモンシニョール・レオナルド神父様に寄付することといたします。
次回の "祈りと分かち合い" のスケジュール等、につきましては、
当ブログ内 "連絡先" に記載されている連絡先に、お気軽にメールで
お問い合わせください。
"一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった" (ルカ24:30-31)