クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2019/3-5 祈りと分かち合い 求道者向けその9,その10

 
神さまとの距離が近づき、喜びを表している求道者ですが、毎月スケジュールを調整しながら入門講座を続けています。
 
2019年3月の求道者向け入門講座は、ここにイエスの名によって集められたことに感謝して、まず主の祈りから始まりました。
この日は、四旬節に入ったことからカトリックの暦について、四旬節の意味、私たちの四旬節のあり方についても分かち合いました。
 
この回、第9回目は "イエスの洗礼" です。前回から "イエスの生涯" に入っています。
ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた意味、イエスの受洗の意味、この出来事と私たちとの関わり、私の洗礼について。天がイエスに向かって開きとはどういうことか、そしてすべての識別の基礎となること、などを1つ1つ分かち合っていきました。
 
求道者と信徒の感想は、
イエスと出合った喜びが大きく、教会共同体の中に入りたい。このイエスの洗礼に与って、自分も受洗したい。教会共同体の1人1人は皆個性があり、多様性が際立つ、にもかかわらずイエスにおいて一致しているという奇跡は神のみ業だろう。それぞれが違ったこの個性的な共同体は、私にとってとてもい心地が良く、ここにいたい。
イエスこそ私の希望だ。これまで聖書を一人で読んできたが最近解釈や感じ方が変わってきた。私にとっては、ミニ死とミニ復活どころか、ミディアム死とミディアム復活といった規模だ。
 
 
2019年5月の第10回目の入門講座はまず、浜松教会でいただいた大変貴重な
"ルルドの水" (フランスのルルドから持ち帰った本物の水) を使っての、お祈りとなりました。
 
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皆でアヴェ・マリアの祈りを唱えながら、参加者1人1人にルルドの水を少しずつかけて初めの祈りとしました。
体の調子が悪い方には、体の部分にもかけて回復を皆で祈りました。
 
この回では、"ファリサイ派の人たちとの対立" をテーマに安息日論争の箇所を読みました。安息日とはそもそもどういう意味で、当時どんな位置づけにあったか、関連の旧約聖書の箇所、イエスが安息日より優先させたものは何だったのか、それはなぜか。さらに自分の心の囚われは何か、そこから自由になること、自分の価値観とイエスの価値観はどう違うのか、などを分かち合いました。
 
さらに "神殿での危機" のテーマで宮清めの箇所を朗読しました。
当時神殿で行われていた慣習、イエスの怒りは何だったのか、祭司長や律法学者たちの反応は?、自分たちと照らし合わせて、これは私に何を語っているのか、またこの箇所は、いちぢくの木の話に挟まれていますので、もっと大きな神殿の崩壊の預言などの意味も分かち合っていきました。
 
求道者と信徒の感想は、
規定にかなっていない人への否定が、社会の中での排除や不登校などを生み出すのだろう。自分も優越感を感じてしまう点は時々ある。こういうことは今後、意識してゆきたい。律法は本当に細かくて、ある意味理に適うところも多く、厳しいがすごいと思う。
教会敷地内での物売りや物乞い行為は数年前より主任司祭によって禁止され、その旨の看板が立っている。それをこの箇所を読んで思い出した。教会がそうしたのは、聖書のこの箇所からだろう。
 
私たちは、神殿(私たちの共同体内)で、商売や金儲けを露骨にはしないが、共同体に対して、俗世間的なメリットや利益をまず優先させていないだろうか。
商売をしなくても、Take ばかりのエゴな態度では、この箇所の商売人や、両替屋と同じではないか。そのエゴをイエスさまはどうご覧になるだろう。
私たちがイエスと共に、共同体に "仕える" 態度をとる時、神の霊によって生かされ真の共同体として生きるのだろう。いちぢくの木にも実りがあるのだろう。
 
最近は、み言葉を読んだり、背景を知ることでワクワクした気持ちだとおっしゃる求道者の方の喜びを神さまに全部お返しして、終わりの祈りとして、主の祈り・アヴェマリアの祈り・栄唱を皆で唱え、喜びと感謝のうちに、この日はお開きになりました。
 
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安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。(マルコ2:27-28)
 

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