2017/6/18 祈りと分かち合い (求道者その2)
"キリストの聖体" の祝日の日、2017年6月第2回目の "祈りと分かち合い" が
6月18日(日) にKL St.John's Cathedral パリッシュホール内の教室で行われました。
KLカトリック日本人コミュニティは、早いもので発足してから3年目に入りました。
2年続いている分かち合いですが、最近入門の方が新たに加わりました。
それが長く続けて参加している方々にもよい刺激となっています。
雰囲気が新しくなることで、ますます充実した楽しい分かち合いとなっています。
初めに、ラインホルド・ニーバーの "道を求める者の祈り" で心を一つに合わせ
初めの祈りとしました。
この日は、3巡目初回 "聖書とは?聖書を読むこころ" と題し、これから聖書を使って
分かち合いをする上で知っておきたいこと、カトリック教会が大切にした聖書と
聖なる伝承について、さらに究極的な人間の求め、救いへの問いを問題定義として
意識の上に上げていくという、第一回目としての分かち合いをしました。
聖書からは、創世記1:26-31のみ言葉を朗読し、神の似姿としての人間を無条件に
愛し肯定することこそが人間の尊厳を裏付けていること、また人間の尊厳は社会が
付与する物ではないことなどを、深く味わいました。
以下は、自由に分かち合った内容の一部です。
① 聖書は歴史書ではなく、霊的・魂的な基準で読むものなので、右脳を使って読むべきなのだろう。自分は長く左脳ばかり使い鍛えてきたので、右脳を使うということにはあまり慣れていない。これから意識しようと思う。
② 身内が亡くなることがこのところ多くなり、死とは何だろうと本気で考えるようになった。"永遠のいのち"の恵みを知っても、なお深くその真理の意味を探し求めている。特に信仰を持たない家族への慰めは難しいことを経験した。自分自身も今後、どう自分の死をとらえ、向かい合っていくかということを日々想っている。
③ 死と永遠のいのちへの理解は、自分の人生をかけた長い課題となっていくだろう。
④ 私は最近亡くなった家族が、先に天国に行った家族と再会し、喜んでいると希望を持っている。幸せに感じていると信じている。
⑤ 人間の死をどうとらえるかが一番気になる。特に天寿を全うした死ではなく
理不尽な亡くなり方をした方を、どうとらえていったらよいのかが一番気になるところだ。
これからイエス・キリストとの出会い、彼の弟子となり彼の友となることをテーマと
し、イエスとの人格的な出会い、特にこの方が私にとって何者なのか。私の人生と、
どういう関係があるのかを、それぞれが探していく旅を共に続けていきます。
最後に、聖歌 "マラナタ" を歌いお開きになりました。
次回の "祈りと分かち合い" は、7月9日を予定しています。
詳しいことは、当ブログ内 "連絡先" に記載されている連絡先まで、お気軽に
お問い合わせください。
"道を求める者の祈り" ラインホルド・ニーバー
神よ、私はまだあなたのことをよく知りませんし、あなたが本当におられるのか、
どうかさえ、はっきり分かりません。
けれども私の心は この世のものでは決して満たされることのないことを予感し、
けれども私の心は この世のものでは決して満たされることのないことを予感し、
心の底ではあなたを求めています。
私は生まれてきました。しかし、私は、自分がどこからきてどこに行くのかを...
私は生まれてきました。しかし、私は、自分がどこからきてどこに行くのかを...
また、人間の尊厳を口にしながら、私の命がどれほどの価値をもつのかを、
誰も私に教えてはくれませんでした。 けれども、それが分からなくては、
行く先も定かでない迷路をさまようようで、私は不安でたまりません。
神よ、もしあなたが本当におられるのなら、あなたを探し、あなたに向かって叫ぶ
神よ、もしあなたが本当におられるのなら、あなたを探し、あなたに向かって叫ぶ
私にあなたの声をお聞かせください。
そして、私を人生の迷路から導き出してください。
生きることの厳しさにあえぎながらも、なお希望に満ちてこの世の命を生き抜くこと
生きることの厳しさにあえぎながらも、なお希望に満ちてこの世の命を生き抜くこと
ができますように!