クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/9/3 祈りと分かち合い (求道者その6)

 
2017年9月の第1回目 "祈りと分かち合い" を9月3日(日)にKL St.John's Cathedral
パリッシュホール内の教室で行いました。
 
 
 
 
この "祈りと分かち合い" は、言葉の壁がある海外での信仰生活や教会生活を、
私たちの母国語である日本語でを使い、恵みの気づきの分かち合いにとどまらず、
各々がイエスと友となり弟子となることをテーマに、神とのよき関係を探していくことを目的としています。
 
この日は分かち合いをする前に、9月17日にSt. John's Cathedralで行われる、
International Day Celebration での、KLカトリック日本人コミュニティの役割に
ついても、打ち合わせも行いました。
午後1時ごろからコミュニティホールで行われる、各国の文化紹介・日本の手工芸品やお土産品の販売の手順について、準備が進んでいます。
 
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写真はFaceBookページをご覧ください。
 
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今回はまず、"主の祈り"と"栄唱"で、皆で心を一つに合わせ最初の祈りとしました。
それから、マタイ20章1節から16節までの "ぶどう園の雇い主と労働者" の箇所の
み言葉を深く読み、誰一人として神様から忘れられている人はいないこと、天の国の
たとえを深く味わい、気づいたことやいただいた恵みを自由に分かち合いました。
 
以下は、自由に分かち合った内容の一部です。
 
① アドラーの心理学で自分には価値があるということを学び、自分に言い聞かせてきた。そうすることで自己肯定感が持て、自信が生まれる。存在に意義がある、生きているだけで価値があるということは、この福音と共通すると思った
② カウンセリングをする上で、アドラーの心理学や教育心理学を学んだ。どちらもアメリカ生まれで日本では少し調整が要る。何々しなさい、しなければないと言いがちだが、存在するだけで価値があるということに気づくと、視点が変わってくる。これは愛だと思う。また自分を解放し心を開ける人は、共感という点で他者の心も開くことができる。人はそれぞれ違うが、存在を肯定することが愛だ。
③ イエスのたとえは放蕩息子のたとえのように逆説的な話が多いように思う。ここに出てくる労働者は仕事を探して前の晩から並んでいたかもしれない。それでも雇われない人のつらさをイエスは理解してくださる。そんな中で「ぶどう園に行きなさい」と言われたら、喜びと安心がある。現実社会で報われないことも、神様がすべてをわかってくださる。神は平等に私たちを愛してくださる方だ。命をこうしていただいていること自体が奇跡だ。
④ 子供のころ池でおぼれてもがいている自分、水の上に青い空が揺らぎ、死を意識したことを思い出した。こうして生きているのは、神に生かされているからだろう。日ごろはこの出来事などは忘れて生活しているが、自分の存在の価値や、生かされていることを思い出す。
⑤ 太平洋戦争が終結した後、終戦がもう過ぎているのに、アメリカの機銃掃射が幼い自分たちの近くを撃ってきた。伏せた顔を上げるとすぐ目の前の地面には穴が開いていた。私は今こうして神に生かされている。
⑥ 幼いころから自己肯定感が持てず自分はゴミだと感じていた。どんなに頑張って結果を出しても、それは人間社会の都合の中での成功でしかなく、もっと深い私の存在に関わる自己肯定にはつながらなかった。大人になって聖書でイエスと出会い、自分にはもっと深いところに価値があることを知り、少しずつ自分の尊厳を取り戻した。イエスは私にとっての救いだ。
 
終わりの祈りとして、聖歌 "ガリラヤの風かおる丘で" を皆で歌って、この日はお開きになりました。
次回の"祈りと分かち合い"は9月10日(日)午後を予定しています。
 
引き続き、インターナショナルデーミサへの参加はもちろんのこと、準備への参加、
販売用の日本の製品やお土産品の献品、お寿司用意のための献金の募集をしています。世話人か、担当者にご連絡ください。
 
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わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ43:4)