2017/10/15 祈りと分かち合い (求道者その7)
2017年10月の、KLカトリック日本人コミュニティ主催 "祈りと分かち合い" は、
10月15日(日)に、メンバーの自宅で行いました。
この母国語による日本語での "祈りと分かち合い" のそもそもの始まりは、
海外生活という特殊な環境の中で、神さまと出会う方も少なくないため、そうした
未信者・求道者へのガイド的ともしびの役目と、さらに現地で英語の入門講座(RCIA) を経て現地洗礼を受けた方々への、その後の日本語でのフォローアップのために、
当コミュニティ(共同体)の担当司祭である KL St. John's Cathedral レオナルド神父様の許可を得て、設けられたものですので、その方々が優先されるものです。
時間・場所・マンパワーに限りのある、KLカトリックコミュニティのこれまでの状況では、信者歴の長い方々がメインの、大人数でのサロン的分かち合いになってしまうと、まず優先すべき未信者の方々の疑問や発言の機会を十分に確保することができず収拾がつかないため、これまでのあり方を深く反省しました。
少人数形式での未信者の方々と現地洗礼者を優先するという、本来あるべき姿に立ち帰り、また人数に関しても、一般的に望ましいとされる4名から6名程度の少人数で行うことに改善したものです。
信徒歴が既に長く、担当司祭からの入門講座を既に終了している方で、信徒同士のみが行う分かち合いの場合は通常、日本のどこの教会でも海外でも、またカトリックでもその他の教会であっても、司会はいずれも輪番制で順番に行い、教会が公式に勧める以下のガイドラインに従って自発的に自由に行うことになっています。
どこでもそうですので、詳しくは最寄りのマレーシア及び日本の神父さま等にお問い合わせして、ご確認いただければと思います。
「聖書の集い」の進め方
1.短い自己紹介(皆が知り合っている場合は必要ありません)
2.はじめの祈り(司会者が唱えます)
主イエス、あなたは福音書をとおして きょうもすべての人に語りかけてくださっています。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」 わたしたちは、このあなたの呼びかけに応えてここに集まりました。
あなたは、ご自分のもとに来たすべての人を歓迎してくださいます。 わたしたちも互いに心から歓迎しあうことができますように。 (きょうは○○さん、○○さんが、この集いに初めて参加してくださいました。
新しい仲間を与えてくださったことを心から感謝いたします。)
主イエス、 わたしたちは福音書をとおして伝えられたあなたの姿を見つめます。 あなたの声に耳を澄まします。 あなたとともに時を過ごそうとしています。 わたしたちがあなたの心といのちに触れ、 お互いのことばに耳を傾け合い、 共に祈ることをとおして、 新たな力をいただくことができますように。アーメン。
1.短い自己紹介(皆が知り合っている場合は必要ありません)
2.はじめの祈り(司会者が唱えます)
主イエス、あなたは福音書をとおして きょうもすべての人に語りかけてくださっています。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」 わたしたちは、このあなたの呼びかけに応えてここに集まりました。
あなたは、ご自分のもとに来たすべての人を歓迎してくださいます。 わたしたちも互いに心から歓迎しあうことができますように。 (きょうは○○さん、○○さんが、この集いに初めて参加してくださいました。
新しい仲間を与えてくださったことを心から感謝いたします。)
主イエス、 わたしたちは福音書をとおして伝えられたあなたの姿を見つめます。 あなたの声に耳を澄まします。 あなたとともに時を過ごそうとしています。 わたしたちがあなたの心といのちに触れ、 お互いのことばに耳を傾け合い、 共に祈ることをとおして、 新たな力をいただくことができますように。アーメン。
3.次の日曜日のミサの福音の箇所をゆっくり読む(参加者の1人) 。
4.「福音のヒント」を読む(別の人。席順で段落ごとに分けて読んでいく) 。
5.もう一度、福音の同じ箇所を読む(また別の人)。
6.5 分ぐらい、各自が沈黙のうちに福音の言葉を味わう。
7.心に響いたことを分かち合う。 (席順に、なるべく一言でも話してください。ただ、無理に話さなければな らない、という圧迫を感じないように。一週目は 3 分以内を目安に話して ください。残った時間で、さらに分かち合いを続けます)
8.神が今日のわたしたちに何を呼びかけておられるかを受け取るために、し ばらく沈黙のうちに祈る。(3分ぐらい)
9.参加者が自由に自分のことばで祈りをささげる (祈りの結びに「アーメン」と言い、皆で「アーメン」を繰り返す。 最後は主の祈りで結ぶ)。
天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日(きょう)もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
4.「福音のヒント」を読む(別の人。席順で段落ごとに分けて読んでいく) 。
5.もう一度、福音の同じ箇所を読む(また別の人)。
6.5 分ぐらい、各自が沈黙のうちに福音の言葉を味わう。
7.心に響いたことを分かち合う。 (席順に、なるべく一言でも話してください。ただ、無理に話さなければな らない、という圧迫を感じないように。一週目は 3 分以内を目安に話して ください。残った時間で、さらに分かち合いを続けます)
8.神が今日のわたしたちに何を呼びかけておられるかを受け取るために、し ばらく沈黙のうちに祈る。(3分ぐらい)
9.参加者が自由に自分のことばで祈りをささげる (祈りの結びに「アーメン」と言い、皆で「アーメン」を繰り返す。 最後は主の祈りで結ぶ)。
天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日(きょう)もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
10.結びのことば(司会者が読みます)
これで聖書の集いを終わります。 わたしたちはこの集いの中で、福音書の言葉をともに味わい、 ともに祈るというすばらしい恵みをいただきました。 最後に一つだけわたしたちは約束をします。 それはきょうここで聞いたことをわたしたち一人一人の心の中にだけ収め、ほかの場所で話さないことです。 それぞれの生活の場に戻っていくわたしたちを 神様が豊かに祝福してくださいますように。 どうもありがとうございました。 (以上 カトリック東京教区サイト幸田和生司教様より)
これで聖書の集いを終わります。 わたしたちはこの集いの中で、福音書の言葉をともに味わい、 ともに祈るというすばらしい恵みをいただきました。 最後に一つだけわたしたちは約束をします。 それはきょうここで聞いたことをわたしたち一人一人の心の中にだけ収め、ほかの場所で話さないことです。 それぞれの生活の場に戻っていくわたしたちを 神様が豊かに祝福してくださいますように。 どうもありがとうございました。 (以上 カトリック東京教区サイト幸田和生司教様より)
孤独になりがちな海外生活を、楽しく過ごしたいと目指すのはとても良いことです。
しかしながら優先順位というものがありますので、私たちカトリック信徒の一人一人のあり方としては、日本人会での文化部同好会などで習い事をしたり、同好会活動などのレクリエーションを提供する場とは決定的に違うこと、本質的なカトリック教会共同体の特殊性を認識する必要があります。
またカトリック信徒歴が長く、日本の教会共同体とまだつながりがある方々は、一人一人に神様から与えられている信徒使徒職を思い起こし、異国のこの地に来た(派遣された)カトリック信徒として、そして教会共同体の一部としてどうあるべきか、神さまのみ心を問い直す大変良い機会を与えられました。
この日の分かち合いでは、既に半年ほど通われている求道者の方、そしてこの日初めて参加される全くの入門の方もお迎えし、まず十字の切り方から分かち合いました。
一番短い祈りであり同時に完全な祈りである、父と子と聖霊のみ名によってアーメンと十字を、人生で初めて切るその時に立ち会えることは、大きな祝福であり、私たちにとっても大きな喜びであります。
それから、ニーバーの "道を求める者の祈り" を初めの祈りとしました。
これまで、"イエスは父なる神の愛の深さ広さをあらわす" ことを福音書のみ言葉から味わってきました。
すでに救われている者として、私たちがこの大きな愛にどう応答するのかをテーマに
いと小さきものにしたこと(マタイ25:31-46)、隣人になること(ルカ10:25-37) の
み言葉を味わい、意味のわからない言葉を確認しながら、気付いたこと、いただいた恵みを自由に分かち合いしました。
この求道者の方と始めていらした入門の方はどちらも、みことばに、そして神さまの
愛に大変心を開いていらっしゃるのがよくわかります。
キリストによって集められた私たちに働く聖霊に向けての真剣な態度とまなざしには、圧倒されるものがあります。そして喜びや希望を顔に表し、それを垣間見させてもらうことも、分かち合いの大きな喜びであります。
彼らがいつくしみ深い神さまの大きな愛に気づき、福音の喜びを知ることができるようどうぞお祈りくださいませ。
以下、この日のその分かち合いの内容の一部です。
① 愛の反対は無関心であるが、まずその愛の意味を深く思うと、リスペクトする・関心を持つ、の言葉が浮かぶ。愛の反対は無視・軽蔑・無関心と思う。
② 先に神様から愛され救われている自分が、その応えとして何かをする、善き行いをすることが、こういう順序で来るということは、新鮮な知らせで驚きだ。
③ 神を愛し、隣人を愛するとは、キリスト教特有のものと思っていたが、イエスがここで言うように、レビ記と申命記にあり、律法に記されていたということを初めて知った。イエスは律法を完成させるために来たというのは、ここだと思った。
④ 放蕩息子のたとえの父の言葉にもあったが、見て・憐れに思い・近寄って、の3つの言葉は、まず先に神様が自分にした事だ。憐れむという動詞は日本語的に上から目線的に聞こえ、自分にはなじめない。自分の言葉にしてみると、その人に関心を持ち行動を起こし、親身に考えてあげること、と思う。
⑤ 小さい者の1人にしたことは私にしてくれたことなのである、誰がこの人の隣人になったと思うか、を深く読み、信徒の奉仕活動の在り方を考えさせられた。
立派なボランティア・奉仕活動を続けているカトリック信徒は多いが、その心の動機が本当に小さい人に寄り添うものであるか立ち止まって考えてみることはよい機会だ。
活動の動機が、頼まれたので日本人的な義理で・呼びかけられた方には今後お世話になるので・自宅を出て気分転換するのに奉仕活動はよい口実・呼びかけられた人に対してのこれまでのお礼として、といった日本人的な動機付けが多々あるように気づく。これらがすべて悪いとは思わないが、これでは小さき人に近寄って行き、隣人になっていくキリスト者としてのあり方というより、自分の都合や自分のメリットがまず先になってしまうエゴではないのか。いわゆる隣人のいない隣人愛になってはいないか。そもそも論として、私たちが奉仕活動をするときには、自分のための奉仕ではなく、対象となる小さき人に心が寄り添っているかを今一度問い直す作業をするのも、大切なことだと思う。
終わりに人気の日本語の聖歌 "マラナタ" を3番まで歌い、この日は感謝のうちにお開きになりました。
次回の分かち合いの日程は未定です。
私の兄弟たちのもっとも小さい者になすことのすべては、私にしたのです。
さあ、わたしの父の家に帰りなさい。
我が家がないときにあなたはドアを開けてくれ、裸の時に着るものを与えてくれた。
私が疲れたときにあなたは休みを与え、不安のときに怖れを静めてくれた。
私が小さかった時にあなたは読むことを教え、寂しかったときに愛を与えてくれた。
私が牢にいた時にあなたは訪ねてくれ、病気の時に見舞ってくれた。
見知らぬ土地であなたは私をもてなし、仕事を探していた時に見つけてくれた。
(マザーテレサ)