クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/11 祈りと分かち合い (求道者その8)

 
2017年11月の、KLカトリック日本人コミュニティ主催の日本語による
"祈りと分かち合い" の第1回目を市内のカフェで求道者向けに行いました。
 
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異国での慣れない海外生活は、目新しい経験や、楽しいイベント、新しい出会いなどがたくさんあり、楽しいものではありますが、一方で日本人にとっては "荒れ野" でもまたあり、この地で神様と出会う方も少なくありません。
 
この地に住む既存の日本人カトリック信徒は、こうした方々に対してそれぞれが各々の方法で、灯(ともしび)となるように導かれています。
すべての信徒には、信徒使徒職の役割があることを、私たち信徒は皆かつて所属していた日本の教会から知らされています。ですので、私たち既存のカトリック信徒は、異国のこの地に派遣された者として喜びをもって、特に神さまを求めている方々に対しては、日本語で福音を伝えてゆけたらと思っています。
 
まずは初めの祈りとして、イエスさまが教えてくださった "主の祈り" 、それから
マリアさまに取次ぎをお祈りするために "アヴェ・マリアの祈り" 、そして教会の伝統的な祈りである "栄唱" を皆で一緒に、心を一つにしてお祈りしました。
聖霊の働きによって、バラバラな個性の人たちが、主において1つに集められた奇跡に感謝し、神を賛美し、喜びを共有しました。
 
この日は、"イエスは神の国をあらわす" 神の国とは?をテーマに、神の国(マタイは天の国)が書かれている聖書の箇所を、順番に読んでいきました。
 
"神の国"とは、神が支配、神が人間の心と社会の隅々まで真の神としてあがめられ、あらゆる価値の基準とされること、そして正義と平和の秩序が実現されることです。
 
以前にみ言葉を味わった箇所、徴税人ザアカイがイエスと出会うことで、彼に神の国が始まったみ言葉も思い出しながら、分かち合いが進められていきました。
価値基準となる旧いものが、神が愛してくださったことに気づいた時、神の価値観に私たちは変えられていきます。実際の生活が変わってゆきます。
 
私たちが向かっている方向がどこなのかも、同時に思い巡らせました。
神の国が始まったしるしとして、価値観が変わってゆきます。
 
私たちそれぞれが、人生の中でイエスとの出会いによって、心の囚われ、思い煩いが、愛とゆるし、喜びや希望に変えられていくことに、あらためて神の愛の大きさをしみじみ感じ、賛美と感謝を表しました。
 
以下、この日の分かち合いの内容の一部です。
① 自分が今囚われているものは、まさにこの旧い心の中の1つの項目だ。このことで今日は頭が痛かったが、イエスによって私は変えられていく。神の愛だけが私を解き放ち自由にしてくださる。それを知り希望が持てた。
 
② 毎日の実社会の中では、地上のものを大切にしがちだか、優先順位としても、神の力に委ねる・愛・希望・信仰・喜び・自由といった神様から新しくされた心を忘れないように大切にしていきたい。それによって、私の毎日の地上の生活の内容も具体的に変わってゆくはずだ。
 
③ この変えられる過程を、回心(神の方に回る)とか、開心(神に心を開く)とよく聞く。この漢字はよくわかるが、よく使う"悔い改め"という言葉は"後悔"に意味が近いように感じられ、日本語としてはあまりピンと来ない。"立ち帰る"の言葉の方が、自分の場合はしっくりくる。立ち帰る "場所" があるというニュアンスや、本来自分は神の近くにいたというニュアンスもあり、この言葉の方が好きだ。立ち帰れるようにいつも祈り神と共にいたい。
 
④ イエスの言葉を、単なる良い話として人ごとのように決して思わず、み言葉が実際に日々の、今日の私の生活や人生にどう関係しているかをいつも意識したい。神がともにいることを感じる。神の国はまだまだ完成していないが、既に始まっていることに喜び、希望を持っている。私はひるむことなく毎日、神の国を目指して生きていきたい。
 
私たちと今、ここに共いてくださるイエスさまを実感し沈黙しました。
この神秘に賛美と感謝を捧げ、喜びのうちに分かち合いはお開きになりました。
 
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ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
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