クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/11 祈りと分かち合い (求道者その11)

 
今月の、KLカトリック日本人コミュニティ主催、日本語による"祈りと分かち合い"は、本帰国間近の求道者と入門の方々に、そのニーズに合わせて、一回一回時間を大切にしながら、頻度を上げて進めています。
 
まず皆で十字を切り、イエスさまが教えてくださった "主の祈り" を初めの祈りとしました。
 
今回は、"受難に向かうイエスその1" として、"安息日に麦の穂を摘む" 、"昔の人の言い伝え" 、"神殿での危機" のマルコ福音書の箇所のみ言葉を朗読し、当時の背景や言葉の意味も確認しながら、分かち合いを進めていきました。
 
福音書の中でイエスは度々、ファリサイ派や、律法学者たちと対立しています。それはなぜだったのか、イエスが律法より優先したものは何だったのか、私たちも何かに囚わるという心の癖はあるのか? 自由とは何か、などを分かち合いました。
 
イエスを知らなかった頃は自分に対しても人に対しても、ファリサイ派のように規則規則で生きてきた。イエスの愛を知っていたら地上の社会の中での人とのかかわり方ももっと良いものに代わっていただろうと思った、との感想が出ました。
 
"昔の人の言い伝え" の箇所では、これまでの厳しい食物規定を廃棄する大胆な言葉に聞こえます。 私たちはここマレーシアで、イスラムの方々が守っているハラルという習慣を身近に触れて日々暮らしています。 ノンハラル、つまり豚肉や豚由来の加工品、材料に含まれるもの、酒類は、日系食品スーパーマーケットでも、必ず別コーナーで売られていますので、食物規定を持つ方々の習慣はそんなに珍しく感じません。
そんな私たちにはこの、"外から人の体に入るもので人を汚すものは何もなく、人から出てくるものこそ人を汚す" は、とても大胆に聞こえます。
私たちも悪口を口にすることで、それが自分の耳からも入り神様から遠ざかっていくのではないか、との感想がありました。
 
また、神殿を清めることにどういう意味があったのか?私たちのエゴとは?罪の傾向とは?も合わせて自由に分かち合いしました。
 
先日、神さまと出会い、イエスと目が合い、その愛にはっきりと気付くという救いの時の経験をされたこの求道者の方ですが、日本に本帰国してからもこのように神さまのこと、イエスさまのことをもっとよく知りたい、み言葉を読みたいがどうしたらよいかとの質問がありましたので、最寄りのカトリック教会の神父様を訪ねるようにアドバイスしました。
 
引っ越し先が決まり次第、近くのカトリック教会を紹介することになりました。
聖霊の大きな働きには、圧倒されるばかりです。本当に神さまのなさるみ業は、私たち人間の想定をはるかに超えたものです。今ここに救いと喜びがあります。
神に感謝。キリストに賛美。
 
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安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。(マルコ2:27-28)