クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2017/12 祈りと分かち合い (求道者その14)

 
早いもので今年も12月、待降節に入りました。
年間を通して常夏のクアラルンプールでは、クリスマスも夏服のまま過ごします。
街ではクリスマスの飾りつけがされ、キャロルが鳴り響いています。
 
本帰国が迫っている求道者との分かち合いが続けられています。
本帰国前に、年末年始にも一時帰国する予定ですので、神さまが与えてくださったこの限られた貴重な時間を惜しむように、1回1回を大切に過ごしています。
神さまが与えてくださった、たくさんのお恵みを分かち合うこの機会が、なんと素晴らしいものかと実感しています。
 
いつものようにまず "主の祈り" を心を一つにして一緒に唱え、主によってここに集められたことに感謝して初めの祈りとしました。
イエス様ご自身が教えてくださったこの主の祈りは、"私に"ではなく、"私たち"となっていることの気づきがあり、救いは"私"にだけではなく、"私たちに"なのだと改めて確認することになりました。私1人だけが主とつながり救いがあるのではなく、教会共同体の仲間とともに、教会共同体を通して救いがあるという、教会の本質の気づきがありました。
 
この日のみ言葉の朗読は、イエスの受難と死・復活のその1として十字架上の死です。
四福音書にこの記述がありますが、この日はマルコの15章から主の十字架の箇所を読み、わからない言葉なども確認しながら、十字架の意味や私の人生とどういう関係があるのかを深く黙想し、その後分かち合いをしました。
 
エルサレム入場から始まり、先日分かち合いをした神殿の清め、最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り、ペトロの否認、十字架と過ぎ越しの流れが進んでいきます。
メシアの姿が政治的な王としての期待と、イザヤ書に書かれた苦しむ僕の姿であったことからイザヤの関連個所も読み味わいました。
紀元前500~600年に書かれたイザヤの預言が、ここで実現するという旧約と新約の関連にを知り、神のみわざに驚かれていたようでした。
分かち合いが終わった後も、このイザヤの箇所には、とても人間業とは思えないと驚きを新たにされていました。
 
イエスの十字架が新しい過ぎ越しであったこと、永遠の命につながる救いであることなど、すでに神を知る体験をした信徒から復活体験として語られました。
神さまの壮大な救いの計画を知り、驚きと喜びに満たされていました。
 
私たちKLカトリックコミュニティ(共同体) KL St. John's Cathedral 主任司祭であるレオナルド神父様にも、すでにこの求道者の状況をご報告し相談しています。
ご本人も信仰告白をし、イエスを主として受け入れています。
具体的に洗礼を視野に入れていますので、近くのカトリック教会の神父様につなげていく予定です。
この日の十字架の過ぎ越しに関連して、カトリック教会の暦も紹介しました、洗礼式が復活徹夜祭のミサ中に行われることにとても興味を持っていました。
 
またシンガポールカトリック日本会の方が、本帰国先近くの日本の小教区と神父様をご存じで、色々な情報と笑顔のお写真までつけて送ってくださいました。
求道者も大変心強く思い喜んでいました。
シンガポールのカトリックの皆さま、お祈りとお励ましをありがとうございます。
 
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人の子は仕えられるために来たのではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)