クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2018/9 祈りと分かち合い 求道者向けその1,その2

 
新しくいらした、求道者の方との分かち合いがいよいよ今月からスタートしました。
 
私たちKLカトリック日本人コミュニティが所属する小教区KL St.John's Cathedral
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海外生活において特にここマレーシアでは、私たち日本人は楽しいこと、新しいこと
日本では経験できない貴重な体験をすることができます。一方で人生の根源的な疑問を感じたり考えたり、また黙想したりする機会にも恵まれる時です。私たちにとってここは "神と出会う場所" 、いわゆる "荒れ野" なのかもしれません。
 
今回もまた、信仰を求め聖霊に導かれて、声にならない言葉で神さまをもとめていらした方を、KLカトリック日本人コミュニティ1人1人は、信仰共同体の仲間として受け入れ、できるだけ寄り添い、共に歩いてゆくつもりです。
 
早速、主任司祭のレオナルド神父様にご相談しました。現地RCIAを卒業して受洗した現地洗礼組メンバーたちも知恵を貸します。皆、英語が完璧にわかるわけではありません。全員がむしろわからないことの方が多く、また現地の教会事情もよくわかもらないというのが現状です。
 
ですが、持ち物を分け合うように、わかることを精一杯分かち合おうとしている
個性豊かなこの信仰共同体の姿勢は、ここに"神の国" が既に始まっていること、
その "豊かさ" を私たちに知らせてくれます。そしてそれを知ることができる私たちは、このような "出会い" と "分かち合い" で集められたことそのものが、神さまからいただいている恵みであり、喜びのもとになるものだと再度気づき始めています。
 
昨年の洗礼式の様子
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主任司祭のレオナルド神父様は、言葉の問題であるいは仕事の都合で物理的にRCIAに参加できない場合、カトリック日本人コミュニティにおいて入門講座の内容の分かち合いをし、神父様に面談で内容を報告し、そして9か月間教会に通うことで、翌年の復活徹夜祭中での洗礼の許可は下りるとおっしゃってくださっています。
 
ですが今回は、来年からのRCIA参加を目指し、主任司祭から許可をいただいた
日本語での入門講座を、できる時にできるだけ進めていくことになりました。
 
第1回目は聖書について。聖書の成り立ち、福音書はどのように書かれたのか、どのような心で読めばいいのか、入門講座のオリエンテーション的な内容です。
まず初めの祈りとして、ニーバーの"道を求める者の祈り"でスタートしました。
十字の切り方、父と子と聖霊のみ名で祈ること、"アーメン"ととなえる意味など。
神さまが与えてくださる時間は本当に新鮮に感じます。
同席する私たち信者も、新しい気持ちになります。
 
求道者の感想としては、これまで根源的な疑問を深く持ってはいたが、納得のいく答えを誰も答えてくれなかった、なぜと聞くと怒られた。前世で悪い事をした報いとか
わけのわからない理屈で長く苦しんできた。今日、"福音"という言葉を聞いて、
喜びの気持ちがわいてきて嬉しい。これから一緒に聖書を読んでいきたい。
とのことでした。
大聖堂ではレオナルド神父様によってお葬式が執り行われており、このお葬式の明るさにも心を留めていました。
 
第2回目は、"イエスが現す神さまの愛の深さ" として、"見失った羊" (ルカ15:1-7)と"帰ってきた息子" (ルカ15:11-32)を読みました。
 
羊は当然飼ったこともないので性質はよくわからないが、仮に猫に置き換えてみても、迷った1匹はさぞ寂しく心細いだろうなと思った。自分が飼い主であれば放っておけないので、99匹を置いても探す。今頃おなかをすかしているだろうと胸が痛む。放っておけない。神の無条件の愛は、人間の愛とは本質的に違うと思った。
 
放蕩息子の方は、人間ってわがままで自己チューだなと思った。お兄さんは、実家での出来事と同じところがあり、思い出して思わず笑ってしまった。家を出ている私がたまに帰るとごちそうが出て、実家暮らしをしている兄弟が同じ不平を言う。2000年前のパレスチナの地で共通点があり面白いと思った。自分自身はこの放蕩息子とだぶる。
 
複数回読んでいる信徒は、羊飼いは神の姿、弱いものを神は決して見捨てない。私たちが今生きている社会では、病気になったらしょうがないと効率的に見捨ててしまうことがある。その愛の方向に向いていたい。人間が色々な人がいるようにこの兄弟でも色々で、神である父は両方に無償の愛を注いでいるところが心に残る。
とのことでした。
 
イエスさまが直接私たちに教えて下さった"主の祈り"で、終わりの祈りとし、この日はお開きになりました。
クアラルンプールに咲く美しいランの花々
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道を求める者の祈り (ラインホルド・ニーバー)
 神よ、私はまだあなたのことをよく知りませんし、あなたが本当におられるのか、どうかさえ、はっきり分かりません。けれども私の心は、この世のものでは決して満たされることのないことを予感し、心の底ではあなたを求めています。
 私は生まれてきました。しかし私は、自分がどこからきてどこへ行くのかを…
また、人間の尊厳を口にしながら、私のいのちがどれ程の価値をもつのかを誰も私に教えてはくれませんでした。けれども、それがわからなくては、行く先も定かでない迷路をさまようようで、私は不安でたまりません。
 神よ、もしあなたが本当におられるのなら、あなたを探し、あなたに向かって叫ぶ私にあなたの声を聞かせてください。そして私を人生の迷路から導き出してください。
 生きることのきびしさにあえぎながらも、なお希望に満ちてこの世のいのちを生き抜くことができますように!