クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2018/9 祈りと分かち合い 求道者向けその3,その4

 
初めて教会を訪れ、聖霊の呼びかけに応えて、KLカトリック日本人コミュニティ(所属小教区KL St. John's Cathedral 信仰共同体) に参加されたいという求道者の方と、日本語での入門者向け分かち合いが定期的に続けられています。
 
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第3回目となる分かち合いでは、"主の祈り" と"栄唱" に始まり、前回に引き続いて
"イエスは父なる神の愛の深さ広さをあらわす" をテーマに、"姦淫の現場でとらえられた女" (ヨハネ8:1-11) と、 "ぶどう園の労働者のたとえ" (マタイ20:1-16)  の箇所を読みました。
 
まず、姦通の現場で捕えられた女にイエスがどう関わられたのかを見ていきました。
他者の罪に対して石を投げるという律法、そして行為については、世の中で実際に起こっている罪の大きさと、被害の無念さを思うと、私も石を投げるだろう、いや事と次第によっては石ではすまないほど復讐心や悪事に対して裁きの気持ちがつのるかもしれない。一方でイエスの「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」は従いたいと思うが、人間としてまだジレンマも残るかもしれない。
また、「自分は正しく、あの人は間違っている」というようなことは日常よくあるがこの裁きには気をつけたい。
 
ぶどう園の労働者の方は、前回読んだ放蕩息子のたとえ話に似ていると感じた。大学生の時、哲学の講義でここを扱った。律法では労賃がその日に払うように定められているここが書かれた申命記の箇所は、性善説で始まったのに、人間の罪や悪が大きすぎて、この律法の元となる理念のようなものを忘れてしまった結果ではないか。現代の法律も性善説、理念、解釈、運用と大変難しい課題だ。絶対的に正しい方である神の力なくしては何もできない。後から来た人はシメシメ、ラッキーと思ったのではなく、きっと苦しかっただろう、色々と事情があったのだろう、その人に光が当たったところが印象に残った。
最初に来た人が不平を言うところは、放蕩息子のお兄さんを想起させた。
あとから来た苦しい人たちに光があたり、それが救いと理解した。
 
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第4回目は、こんなに大きな神さまの愛に応えるには、をテーマに
"いと小さき者にしたこと" (マタイ25:31-46) "隣人になること" (ルカ10:25-37)
を読み分かち合いを進めていきました。
 
これを読み、まず東京で線路に飛び込んで落ちた人を助けた外国人の若者のニュースを思い出した。今ここで思い出すというのは、その方の命は今も生きておられ私たちに働きかけてくるからだろうと感じる。スーパーボランティアのおじさんが自ら山に出かけて2歳の男の子を助けた。彼はキリスト者ではないようだが、こういうことができるのは、大きなみ力によるのだろう。人間の実力範囲を超えている。自分はなかなか怖くてできない。善きサマリア人の中に出てくるレビ人のように、通りの向こうを歩いて通り過ぎるかもしれない。でも今日は、隣人というのは、"ある" ものではなく、"なる" ものだと理解した。日本では最近災害が多く、ボランティアのニュースもよく見るがせっかくの善意なのにトラブルも多いと聞く。動機が大事と思う。ボランティア活動は外出するのにいい口実、気晴らしになるし、聞こえがよい、といったような自分の都合で出かけたりする活動だと、"隣人のいない隣人愛" になる可能性があり、そこは注意して意識していきたい。
 
終わりに、私たちを集めて新しい交わりが始まったことに感謝して、"アヴェ・マリアの祈り" でマリアさまにとりなしの祈りをして、お開きになりました。
 
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わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる (イザヤ43:4-5a)