クアラルンプールカトリック日本人コミュニティ

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2019/5 祈りと分かち合い 求道者向けその11,その12

 
早いもので求道者向け入門講座は、11回目を迎えました。
 
この日も、主イエスによってここに集められたことに感謝して、まず "主の祈り" を
一緒に唱え、初めの祈りとしました。
回を重ねるごとに、求道者の方のイエスさまとのかかわりも少しずつ近くなっています。
 
前回から続く、"受難に向かうイエス" として第11回目は、"ペトロの歩み"、そして"最後の晩餐" と "ゲッセマネでの祈り" を箇所のみ言葉を読みました。
 
四福音書の中で随所にみられるペトロの姿を追うと、ほとんどイエスのいるところにはペトロがいます。ペトロはイエスの弟子として、そして私たちと同じく弱く、人間的な癖や欠点をも持った、親しみやすい人物です。
このペトロと、しばし歩みを共にして行きました。
 
聖書箇所はルカ福音書より、イエスがシモンペトロを呼び出した箇所、そしてイエスを知らないと3度否んだ箇所を主に読んでいきました。
 
求道者からは、
ペトロの印象は、漁師だったこともあり、実直で武骨な性格のイメージだった。
"激しく泣いた" ことから、もともと幼子のような素直な心を持っていたのだろう。
イエスはそれも含めて、すべてご存じだったと思う。
 
否んだ時に、イエスがペトロに注いだまなざしが、どんなまなざしだったかについては、ゆるしと愛と慈悲のまなざしだったと思う。この箇所は、いつにもましてありありと映像が浮かんでくる。
 
さらに、そのイエスの温かいまなざしの中に自分を置いてみるという黙想もしてみました。
私たちは、イエスのうちに神を見ますが、ペトロの内に、私たち人間がどのようなものであるか見ることができます。こうしてのちに復活のイエスに出会うペトロは、新しいペトロとして生き始めます。
 
最後の晩餐の箇所は、私たちのミサにつながるものです。そしてゲッセマネでの祈りも、目を覚ましていなさいと言われたイエスさまのことを深く味わい、読み進めていきました。
 
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第12回目は、 "十字架の死" と "復活" です。講座の前に関連の福音書箇所をあらかじめ読んできてもらい、進めていきました。
 
イエスはなぜ十字架に向かったのか、十字架とはどういうことか、当時のイスラエル社会の価値観、富、権力、わいろ、エゴなどの罪と人間の罪、そして私の罪、私といったいどういう関係があるのか、当時の罪のゆるしといけにえの習慣、イエスが神の子羊と呼ばれること、新しい過ぎ越し、さらに当時待望されていたメシアの姿、"王"としての姿のほかに第二イザヤから、"苦しむ僕の姿"の箇所も、併せて読んでいきました。
 
そして、使徒行録から、復活の箇所を読んでいきました。十字架で死んだイエスの記述はどの福音書も似ています。が、復活はバラバラな書き方になっており、復活体験をした弟子たちは、それぞれ変わっていきます。彼らはどんな体験をしたのか。私はどうなのか、私たちの復活と永遠の命とは、と分かち合っていきました。
復活を受け入れることは、その人の生き方が変わらざるを得なくなります。
 
求道者からは、
私は神の愛を受け入れているが、成育史からの心の癖から儒教的なものの考え方にすぐになってしまい、またイエスの愛を受け入れたりと、正直なところ行ったり来たりの日々だ。日本に蔓延する儒教的な価値観には、今や怯えすら感じる。
 
私は今、人生の過渡期に入っていると自覚している。今はこの、価値観の新旧入れ替えにともなう身の回りの混乱などで、少し疲れることもあるが、これが新しい私に生まれ変わる移行期であることは、後になったらもっとはっきりわかるだろう。
復活については、特に違和感なく、すとんと腑に落ちる。素直に信じることができる。神の計り知れない愛の大きさに喜びを感じる。
 
最後に、"祈りについて"、祈りには対象があり、イエスのみ名によって祈ること、自己反省にならないようになど、についても分かち合いました。
 
今月はマリアさまの月、この5月に感謝してアヴェ・マリアの祈りで、この日も喜びの内にお開きになりました。
 
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つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(ローマ8:21)

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